KISSをしようよ


部屋の真ん中に置かれた黒いビニール張りのソファー。
そこが彼女の定位置。
そこで音楽を聴き、ビデオを見、本を読み、眠る。
そこでいつも彼の背中を感じている。

彼女の縄張りのソファーの前の床。
そこが彼の定位置。
彼女のいるソファーに背を向けもたれて座る。
そこで音楽を聴き、ビデオを見、本を読み、ギターを鳴らす。

ふたりは古い映画を見ていた。
レンタルビデオではなく、たまたまテレビをつけたらやっていた深夜映画。
聞いたこともないようなタイトルの80年代のアメリカ映画。
甘ったるいラブロマンス。
時代遅れのファッション。
安っぽいセリフ。
彼の趣味にも彼女の趣味にも合わない映画。

それでもふたりは、無言でブラウン管を見つめていた。

床の上に直に置かれたふたつのグラス。
ベイリーズの黒い液体。
溶けかけた氷。

彼女がここに転がりこんできたからどれくらい経つだろう。
もうずいぶん経ったはず。
女と暮らせば、いつの間にか家の中は女のモノで溢れかえってしまう。
洋服、靴、カバン、化粧品。
そして女の匂い。
なのに、いつまでたってもこの部屋に彼女のモノが増えることはなかった。
洗面台に見慣れないボトルが並んだり、クローゼットの中の革ジャンの合間に鮮やかな色のドレスがかかることもない。
ある日突然、彼女がふらりと出て行っても、ここに彼女が居たことを思い出させるものは、洗面台の歯ブラシとソファーの上の、彼女がいつも使っている毛布くらいのものだろう。

そう、彼女は女じゃない。
彼に何も求めない。
彼の何も侵さない。
飼い犬のようなもの。
いつもはそこにいることさえ忘れていて。
でも、気がつけばそこにいる。

そして、だけど、もし失うようなことがあれば。
きっと心に深い傷をのこす。

ブラウン管の中では、男と女の痴話喧嘩が始まった。
泣き喚く女、怒鳴り散らす男。
そのうち男は怒りもあらわに出て行ってしまう。
女は大げさにベッドの上に泣き崩れる三文芝居。

ふいに彼女がソファーから立ち上がる。
残り少なくなったふたつのグラスを持ってキッチンに向かう。
ぺたぺたと裸足の足音。
彼は彼女の方を見ない。
かちゃかちゃとおかわりを作る音。そしてまたぺたぺたと足音。
カツンと床の上にグラスを置き、ぎし、と背後のソファーのきしむ音。

彼は無言で新しいグラスに口をつける。
彼の細い肩が動いて床の上のタバコを探る。
背中を丸めて火をつける仕草。

彼女はぼんやりと彼の背中を見つめている。
近くにいるのに遠い、遠いひと。
それは生きてきた長さだったり、人としての強さだったり。
彼女は自分が彼のそばにいることを気づかれたくなかった。
気づかれて、追い出されるのが怖かった。
影のようにひっそり彼を感じていたかった。

目の端に映る、彼の疲れた背中。
誰よりも強くて激しい彼の、疲れた背中を守る人間になりたい。
彼女は思う。
誰よりも強い人間になりたい。

ぎし。
ソファーがきしんで、彼女は横になる。
足を曲げて丸くなる。

「寝ると?」
ブラウン管を見つめたまま、低い声で彼が尋ねる。
「ううん」

もうすぐ夜明けがやってくる。
いつもならお互い眠っている頃。
なのにどうしてこうやってつまらない映画なんて見ているんだろう。

彼女の心のうちを見ようとしない彼。
彼の心の中に入ろうとしない彼女。

何もかも違いすぎるふたりは平行線のまま夜を浪費することしかできないのか。

映画はお決まりのエンディングを迎える。
I LOVE YOUの大安売り。KISSの応酬。
抱き合いもつれ合う男と女。
サカリのついた猫のようにお互いを求め合う姿がフェードアウト。
そしてTHE END。
薄っぺらいディスコミュージックに合わせてスタッフロールが流れ出す。

「あほくさ」
彼は脱力したようにソファーに首をもたれさせ、天井を仰ぐ。
そのまま首を横に向けると、すぐそこに、横になった彼女の顔。
こちらを見ている大きな瞳にぶつかる。
「なんね?」
「別に」
無表情な彼女。
彼女は不自然に目をそらせる代わりに、そっと瞼を閉じる。
いつものように。
あたしはここにいないんだよ。
あたしがここにいるってきづかないで。
心の中でつぶやいて。

彼は目を閉じた彼女を見つめる続ける。
ぱたんとドアを閉めるように、目の前で心の扉を閉じた彼女を。

穢れを知らないような、白くて薄い肌。
伏せられた長いまつげ。
きつく結ばれた薄い唇。

彼女は女じゃない。

いつもなら、自分のベッドに戻る頃合い。
壊れやすい少女の顔を見せる彼女に気づかないフリをして。

彼女のまつげが震えた。

そんなことすべきじゃない。
踏み出してはいけない一歩。
想いが気持ちを追い越してしまった。

彼はゆっくり体を起こし。

理由なんてない。
その瞬間。
ただ、そうしてしまっただけ。



そっと彼女にくちづけた。



彼女の体がびくんと震えた。
大きな瞳が見開かれる。

彼は彼女の柔らかい頬に触れる。
一度唇を離し、またくちづける。
彼女は猫のように目を細める。
彼はその目にも小さくくちづけ、離れる。

「寝るっちゃ」

その一瞬の出来事に驚いて、目を見開いたままの彼女の頭をくしゃりと撫ぜて、彼は立ち上がる。
彼もまた動揺していた。
こんなことをするつもりはなかった。
彼はベッドルームに消える。

ベッドルームのドアが閉まると、彼女は小さく震えた。
彼が触れた唇に、自分でそっと触れてみる。
熱い。
はぁ。
混乱に喘ぐ。

彼女は火照る体を抱いて立ち上がった。

混乱している。
どうしていいか分からない。
あたしは影だったのに。
どうして?

彼女は財布とタバコをポケットに押し込む。

怖くなる。
分からなくて怖くなる。
どうしたらいいか分からない。
分からない。

彼女はふらふらと、彼の部屋を出て行った。
街に答えなんかないのに。
答えを探しに出て行った。


おわり


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