BABY BLUE
埃がかぶってヤニで黄ばんだブラインドの隙間から春の日差しが差し込んで、汗じみたシーツの上に縞模様の影をつくる。
シーツの中の塊がもぞもぞと動き、むき出しの腕が伸びてきてベッドサイドのテーブルの上を這い回る。無造作に置かれた、タバコとジッポライター、小銭、ガチャガチャとしたシルバーのアクセサリーを押しのけてミネラルウォーターのペットボトルにたどり着く。
シーツの中の塊はベッドの上でのそのそと体を起こした。
生ぬるいミネラルウォーターをねばつく口の中に流し込み、顔をしかめた。
開かない目を無理矢理窓の外に向ける。
ばかばかしくなるほどの青い空に舌打ちする。
ブラインドの影は、今は彼の顔に光の縞を作っている。
心なしか錆の味のミネラルウォーターをもう一口口に含むとペットボトルを投げ捨てた。
しかめ面のままタバコをくわえて火をつける。
深く吸い込んでゆっくり吐き出し、強張った体をほぐすように首を回す。
そしてやっと足元に絡みつくシーツを蹴飛ばして、くわえタバコのままベッドを離れた。
わしゃわしゃと髪をかき回しながら部屋を横切る。
痩せた体を包むのはぴったりと腰に張り付いたスリムブラックジーンズだけ。
裸足の足が、Pタイル張りの床に散らばる、昨日の夜ベッドに倒れこむ前に脱ぎ捨てたシャツやジャケット、ラバーソールを蹴りよける。
とたんによみがえる昨日の喧騒。
拳を上げるオーディエンス。
耳を突き抜ける仲間達の出す音。
叫び、搾り出す自分の声。
そして、酒、酒、酒。
ツアーが終った、虚脱感と疲労感。
わずかな安堵。
祭の後の空しさ。
何十年続けても慣れない、このどうしようもない寂しさに、いくつになっても子供じみた自分を感じる。
リビングに通じるドアをあけ、重い体を引きずりバスルームに向かおうとして黒いビニール張りのソファーに目をとめる。
すっぽりとはまり込むように、ケバだった毛布にくるまって胎児のように体を丸めて眠る眠る人影。
昨日は確かになかった塊。
彼はだるそうにソレに近づくと、すっぽりとかぶっている毛布の端をそっとつまみ上げた。
赤ん坊のような白い肌と、赤ん坊のようにあどけない寝顔の少女の横顔が現われる。
ただ、赤ん坊にはありえないのは金色にブリーチしておっ立てた髪と、ジャラジャラと耳にぶら下がる1ダースのピアス。
彼は小さくため息をつくとつまみ上げた毛布をもう一度少女の横顔に落とす。
そして、ソファーの前に回りこむと足の先でその塊の腰の辺りを蹴った。
「なにしとっと?」
少女はビクッと体を震わせてから、ゆっくりと毛布の端から顔を出した。
寝起きでも嘘のように整った顔立ち。それもそのはずほんの数ヶ月前まで「国民的アイドル」だった少女。
上目遣いにぼんやりと彼の顔を見つめている。
その美しい顔のフリークのように大きな目のまわりには滲んだ黒いアイライン。異様なのは、左のまぶたが切れて乾いた血がこびりついていること。口元には明らかに殴られた跡。青紫色に変色している。
「あー…鍵、開いてた」
薄い唇からこぼれた声は、その顔から想像するよりいくらか低い。
口を開くと痛むのか指先でそっと傷口を押さえる。その拍子に毛布がすべり落ちて。ショッキングピンクのキャミソールとむき出しの肩があらわになる。
「なんか?ソレ」
そのシミひとつない白い肩に、数日前に見かけたときにはなかった彫り跡のカサブタ。どうやら黒い蝶らしい。蝶の下には何とか読める「we are THE MODS」の赤い文字。
少女は恥ずかしそうに毛布を引っ張り上げてその彫ったばかりのタトゥーを隠した。
「えへへ」
「何か貴様。ガキん癖に何アホなことしよっとう」
天使と悪魔よりも住む世界が違った彼と少女。
いくつかの偶然で出会い、再会し、少女は子犬のように彼の後を付いてくるようになった。
少女は当たり前のように全てを捨てて、彼に傾倒していった。
彼は少女が被っている毛布をひっぺがすと少女の腕を掴み、カサブタの塊のような刺青に顔を近づけた。
「いつ入れたと?」
「……おととい、かな」
彼は少女からすっと離れるとキッチンに向かった。明らかに料理をつくるためには使われていなさそうな、薄汚れたシンクの引き出しをがちゃがちゃと引っ掻き回す。
そして、見つけた小さなワセリンの缶を少女に向かって投げる。
「これ塗っとけ。化膿しよるくさ」
少女はやっぱり照れたような顔で缶を開けた。
そのままいきなりワセリンを塗ろうとした少女に彼が慌てて言う。
「ちょっ…。先、風呂ば入らんと意味なかろうが」
「……うん」
「刺青んとこ、こすんなよ」
ふわりとソファーから立ち上がりバスルームに向かう少女。
その金髪と皮のボンテージパンツの後姿に彼は小さくため息を漏らした。
荒んだ目。尖った肩。いれたてのタトゥー。
出会った頃の少女はもっとふっくらしていて、今よりずっと幸福そうだったような気がする。
彼はさっきまで少女が眠っていたソファーに腰を下ろした。
少女が脱ぎ捨てたごついブーツが足元に転がっている。
彼は片足をソファーの上に上げると膝の上に顎を乗せて爪を噛んだ。
俺が教えたわけじゃない。
少女が勝手に彼に憧れ、彼の真似をすることがロックだと、勝手に彼に付きまとっているだけだ。若さゆえの純粋さで、それまで自分が持っていたもの全てを惜しみもなく投げ出して。自分を傷つけることに夢中になっている。
そんな子供達は沢山いた。
彼自身もかつてはそんな子供だった。
彼が子供のときに唯一手に入れたかったのはロックで、彼が20年間子供達に与えてきたの唯一のものもロックだった。
それを間違いかもしれないと、今まで一度も思ったことはなかった。
俺が教えたわけじゃない。
彼は自分に言い聞かす。
少女の、彼に憧れる真っ直ぐな目を見ると怯んでしまう。
今までの自分が全て間違いだったような気がして頭がグラグラする。
少女を傷つけ、荒ませているのは間違いなく自分だった。
だからと言って少女が捨ててしまったものに責任なんてとれないことも彼は知っていた。
昨日の、自分に向かって手を伸ばすオーディエンス。
自分が歌ってきたもの嘘っぱちなのか?
彼は痛む頭を押さえた。
**********
ふわりと、自分の周りの淀んだ空気に石鹸の匂いと蒸気が混じるのを感じて彼は顔を上げた。
少女がどこか迷子のような表情でバスルームから姿をあらわした。
濡れて頬に張り付いた金髪。PUNKなメイクを落とした少女らしいあどけない顔。見覚えのあるTシャツ一枚を身につけて。
「そこにあったから借りちゃった」
少女は照れたようにTシャツの胸の辺りを引っ張って見せた。
「俺が着とったヤツやなかと?」
「大丈夫、匂いかいだもん」
彼は「おえっ」というような顔をしてみせた。
「ようそげんことすんね」
「森やんのだから、平気」
少女のそんなところが彼は怖かった。
少女は彼を美化しすぎている。
少女は濡れた髪を拭きながら、所在なげに彼の傍に立っていた。
ソファーの上の彼は彼女の切れたまぶたと腫れた口元を見上げる。
「ケンカしようと?」
「わかんない。飲んでて。多分」
「何でウチば来たと?」
「……わかんない。歩いて、気がついたらここに来てた」
少女は唇をへの字に曲げて答える。反抗しているようにも泣きそうにも見える表情で。
彼はため息をつくと立ち上がって寝室に戻った。クローゼットからパジャマのズボンを引っ張り出してリビングにはいると、少女はさっきの格好のままぼんやりとその場に立っていた。
「これ穿け」
「うん」
少女は彼に背を向けることすらせず、手渡されたズボンを穿いた。そんな子供のような行動が少女を幼く見せる。
「肩見せてみ」
少女は素直にTシャツの袖をまくってみせた。白い肌の上、彫られた周りが赤くはれ上がり蝶の部分はばりばりとカサブタになっている。髪を下ろし、メイクを落としたあどけない少女にはそれはただ痛々しいものにしか見えなかった。
彼は無意識のうちに、少女の肩に唇をあてていた。
少女は驚いたように、一瞬大きく体を強張らせた。
彼は熱を持ったその部分に唇を火傷しそうな気分になる。
「もう、こげんことすんな」
「……何で?」
「俺は、ヨシザワみたいなガキがこげんしょーもなか真似する為に歌っとうワケやなか」
「そんなこと、知ってる」
少女は無表情につぶやいた。
そんな少女に苛立ちを覚える。
自分にどうしろと言うんだ?
「今日はもういいけん。もうここには来んな」
「わかった」
少女はあっさりと頷いた。やはり無表情のまま。
少女の長い睫毛が瞳に落とす影を彼はじっと見つめた。
それに気付いた少女が不意に顔を上げる。
彼がたじろぐほど真っ直ぐな目で、彼を見つめ返す。
そして、自分の着ている彼のTシャツの裾を引っ張ってみせた。
「これ着て帰っていい?」
「いいけん。今日はいいけん―――。一晩中歩いてきたっちゃろ?夜までどこも出掛けんけん休んでけ。どうせ家ば帰らんつもりやろーが?」
少女は答えずに小さく笑みをこぼした。
彼もつられて笑顔になる。目尻に優しいしわが刻まれる。
「あほが。女のクセに顔に傷ばつくりよって」
彼は少女の頭をくしゃっと撫でた。
**********
少女はソファーの上に横になって目を閉じている。眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのかは分からない。
彼は、少女が横たわっているソファーを背もたれにして座り、映画を見ていた。
いつの間にか、少女の存在も忘れて意識はブラウン管に映し出される映像に集中していく。頭を空っぽにしてただ映像を追っていく。
窓から西日が差し込んできた。
スタッフロールが流れ出し、彼は現実に戻る。
肌寒さを感じ、背後のソファーにうずまっている少女の存在を思い出す。
そっと振り返り、目を閉じている少女を見た。
彼が貼ってやった絆創膏と美しい顔立ちのギャップに自然と笑みがこぼれた。
毛布をかけてやろうと立ち上がりかけたとき、少女はふいに目を開けた。
「起きとっとか」
「うん」
少女は気だるそうに体を起こした。
ふたりの間に沈黙が流れた。
「ギター教えて」
「あ?」
「ギター、弾けるようになりたい」
彼は答えずに立ち上がり、壁に立てかけてあったアコースティックギターを持ってきた。そして、ソファーの前の床に乱雑に散らばっている、雑誌やらCDやら楽譜やらを足でどけてスペースを作る。
そこに胡坐をかいて座り込んで、自分の前の床を顎で示す。
「座れ」
そう言ってから、今まで何度か他人にギターを教えてくれと言われたことはあったが、「自分で覚えるのがロックたい」などと適当なことを言って、いつもはぐらかしていたことに気付いた。面倒だし、人に何かを教えるのは照れくさかった。
少女は素直に彼の前に座ると、同じように胡坐をかいた。
彼は自分が持っていたギターを少女に持たせる。右手でネックを持たせ、テーブルの上にあったピックを左手に握らせる。
「人差し指、中指、薬指……これがC」
彼は殆ど何も説明せずに、ただ淡々と少女にコードを押さえさせて音を出させる。
そのぶっきらぼうな教え方に、それでも少女は突き刺さるほど真剣な目で彼を見つめ、自分の手元を見つめる。
夕日でオレンジ色に染まり始めた部屋の中。膝を突き合わして座る二人の間で、たどたどしいギターの乾いた音だけが響いていた。
彼は少女にスリーコードを教えて、何度も鳴らさせた。少女の出す音を聴きながら、少女の真剣な顔を見つめる。吸い込まれそうに大きな瞳が、コードを押さえる自分の指先を見つめている。
何故、自分は少女にギターを教える気になったんだろう。
もう来るなと言ったことが後ろめたくてか?
自分が少女を変えてしまったことへの罪の気持ちからか?
違う。
あの、目のせいだ。
まっすぐに何かを求めているのにでも何も期待しない目。
何のまじりっけもなく、自分を見つめてくる目のせいだ。
「あたし―――」
何度も同じコードを鳴らしながら。突然少女が口を開いた。
「自分のやってることの責任を誰かにとらせるつもりはないよ」
どうしても余計な弦まで押さえてしまって、鳴らす音に雑音が混じる。
少女は自分の手元から視線をはずさない。
「森やんから見たら、ただじたばたしてるだけに見えるかもしれないけど。ちゃんと、自分が欲しいものが何なのか、わかってるから」
ギターの音色だけが支配していた部屋に、まるで二人の時間の終りを告げるように電話のベルが割り込んできた。
彼は自分を見ようとしない少女をちょっと見てから、立ち上がり、受話器を取った。
「はい?」
突然、ギターの音が止んだ。
「おう、何ね?ああ、うん、わかっとう、7時。いや、うん。こっちまわってもらうけん」
少女は彼の後ろで、着替えを始めた。
Tシャツとズボンを脱ぎ、ここに来たときに着ていた服に着替える。
はずしていたごついアクセサリーを身につけ、重いブーツを履く。
「おう、ん、じゃあ後で」
彼が電話を切って少女に振り返ると、少女は身支度を済ませこちらに向かって微笑んでいた。
「ありがと」
ほんの少し、泣き出しそうな微笑みのまま少女が言った。
彼は不意に不安に苛まれる。
ここを出てどこに行くつもりだろうか。
つぶれそうになったとき、寄っかかれる誰かがいるんだろうか。
少女の真っ直ぐな目が怖いからと言って背を向けてもいいんだろうか。
彼に背を向けて、玄関に向かう少女の頼りない背中。
足が自然に少女の背中を追いかけ、細い腕を掴んでいた。
腕を掴まれた少女は彼の顔を振り返って見る。その目には零れ落ちそうな涙がたまっていた。
「さっきのスリーコード、ちゃんと鳴らしようなったら来い。次のコード教えちゃるけん」
「え?」
彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「待っとうけん」
少女は答えずに玄関ドアを開けた。ノブを持つ手が小さく震えていた。
そして、部屋から出ていく。
ドアを閉める前、やっぱり彼を居心地悪く感じさせる真っ直ぐな目を彼に向ける。
「うん」
彼の前でドアが閉まった。
少女の、その日初めて見せた心からの笑顔の余韻を残して。
おわり
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